2/22/2013

死ぬという事が怖い。

死ぬという事が怖い。いつか行き着く先は「死」という闇だと思うと死ぬのがとても怖い。死にたくないっていうのじゃないけど死ぬのが怖い。自分が死ぬのが何年後になるかは分からないし、もしかしたら明日死ぬかも知れないけど、いずれ死ぬというのに変わりはなくて、その「死」というものが必ず待っていると思うと怖いんだ。若い時に何をしようが、楽しい人生を送れようが、幸せだと思えようが、死ぬんだよね。俺も死ぬんだよな。死ぬのか。嫌だな。


- Kouhei

Fri Feb 22nd 2013 3:07 AM

2/17/2013

The Difference b/w "traditional" and "original"


There is a clear difference between "traditional" and "original," correct?

On my video of go (board game) on YouTube, I made the title "Japanese traditional board game," and that seems to bother certain people. I didn't write or even say in the video that it's a "Japanese origin" board game. In my understanding, it originates in ancient China, like a couple of thousands of years ago.

Kanji is one of the characters used in Japanese besides hiragana and katakana, and it surely is "traditional" characters in Japanese, although it originated in China as it literally says "kanji (漢字)."

Eating fish (not necessarily raw), for instance, is another traditional custom in Japan, but it's not necessarily "original" custom in Japan. A lot of other countries around the world have such a custom. Throughout the long history of Japan and its people, eating fish has been a tradition from the ancient time. Also, should it be or not be Japanese origin, using chopsticks is traditional means to eat food in Japan just like other Asian countries like Korea and China (and others).

Talking about religions, Christianity is not "original" in the USA but it's "traditional" religion there. Buddhism is not "original" in Japan, but it's surely one of the most common religions in Japan.

So, what is wrong in saying go is Japanese traditional board game? To note a few other things, "go" isn't even "go" in Chinese, is it? I think it's weiqi or something pronounced like that. How come "go" - what's commonly used worldwide is the Japanese term for it when Japan is not the birthplace of go? In addition, the rules of go in China and Japan are different. So...to me Japanese go and Chinese go (weiqi) are different. I am not sure under which rule go is internationally played though. Are there such world champions as "under Chinese rule" and "under Japanese rule"?

2/15/2013

自分の人生

自分は自分の人生で何をしたいのかと思う時、突き詰めて考えるとやっぱり自分が死ぬ時に悔いの無い、「あぁ、俺の人生楽しかったなぁ」と思える人生を送りたいと思う。それが結局自分本位な生き方でも、誰かのために生きる人生でも、自分の人生に満足して死ねる、そんな人生を送りたい。人生がどうなるかなんて分からない。思う様にも行かないものでもある。だけど「あぁ、あれしたかったなぁ」とか「どうしてあの時ああしなかったんだ」と思うような人生は嫌だ。

一ヶ月後、一週間後、もしかしたら明日俺が死ぬ事になったとしたら、今の俺は自分の人生、今までして来た事に悔いが無いとは決して言えない。

愛する人のために自分の人生を捧げる、自分の夢とかを犠牲にしてでも「この人といられさえすれば」という人生も悪くないと思う。そして自分が死ぬ時に「この人と出会えて、一緒にいられて、一緒に時間を過ごせて良かった」と思えさえすればいいと思える人に出会うかも知れない。

反対に、そんな人には一切会えず、自分の人生やっぱり生きていくのは自分自身でだという人生になるかも知れない。そうしたら俺は仕事は出来る事なら好きな事で、稼ぎも良い仕事をしたい。そしてその金を自分の為に使いたい。あとは親のため。上に書いた様に「この人」というような人に出会えればいいが、そんなのないかも知れない。そしたらそれでしょうがない。自分人生自分の為に生きようと思う。それでも自分が死ぬ時に後悔さえしなければそれでいいじゃないか。「良い人と出会えてたらなぁ」とは思うかも知れないけど、それは後悔ではないと思う。自分ではどうしようもない事なのだから。

Kouhei

- Fri Feb 15 2013 2:58 pm

2/14/2013

人種主義者、人種差別者に接する機会


日本にいると他の国の文化にその国の人を通して触れたりとかってのはアメリカとかみたいな多文化/多民族国家に住んでるのと比べると少ないと思う。でも今はネットも普及してるから、他の国の人と交流したり他国の文化に触れるっていうのは出来る。そこで思うのが、日本にいて日本語だけしか使えなく生きているより、たとえ日本にいるというのは変わらなくても世界的に使われている言語、例えば英語を使えるだけでもより"広い世界"を知れる。先に書いたようにアメリカみたいな多文化多民族の国に住んだり、世界の色んな国を旅行するなら尚更そう。上で言う"広い世界"ってのは色々な意味に取れるけど、今俺がとりわけ意味するのは人種差別。

日本に住んでる日本人だったら日本人だとかアジア人だとかいう事で差別されるなんて事はほぼないでしょ?されるとしても外国人から。もしくは国内の一部で未だにある民族差別とか部落差別とか。

それでもインターネットで他の国の人と接するとやっぱり日本人だとかアジア人を差別する人、それに限った事じゃなく人種差別をする人はいるんだなって思う。インターネットと言っても広いけど、例えばYouTubeには色んな動画がアップされてる。一部の過激な思想を持った人たちがアップしてる人種差別を助長したり、ある民族や文化が他のものよりも優れている/劣っているかのように表した動画には人種差別者や人種主義者が寄って来る。人種差別とか関係無さそうな動画にも人種差別的なコメントが書かれている事もある。そういうコメントは必ずしも英語で書かれている訳じゃないけど、英語で書かれているものは読めるから悲しくなる時も腹立たしく思う時もある。

俺に対しての直接的な差別の例を取ると、俺は日本に住んでいて相手は海外に住んでいても、インターネットを通して差別(と言うよりも民族にこじつけた単なる中傷)を受ける事がよくある。広島や長崎の原爆の事だったり、3/11の原発事故の事だったり、慰安婦の事だったりそりゃあ色々。きっと「インターネット」と一口で言っても俺が使ってるのはFBとかニュース読んだりメール送受信したりってだけじゃなくてYouTubeも使ってるしチャンネルも持ってて色んな動画も上げてるからそういう機会が多いだけなんだろうけど。積極的に他国の人と触れる様な事をしてると、望んでいない心ない事を言う人を目にする場面、直接接する機会ってのは増えてくるよ。

まぁこういう事を通して人種差別とか人種主義者の思想とか言動にはちょっとは耐性が出来てると思うから、悪い事ばかりではないけどね。いきなり海外に行って人種差別を受けたりしてショックを受けるって人がいるのも分かる。ある種のカルチャーショックだよね。人種差別なんてのは日本人で日本に住んでいる限り殆ど経験する事は無いだろうし。海外に住んだ事があるわけでも旅行をよくするわけでもない俺が言うのも立場が違うかも知れないけど、色んな意味で日本は平和だよ。他国とでも国内ででも武力の衝突なんて無いし(最近は露中韓との緊張が高まってるけど)、国内の異なる民族同士での文化的な衝突や争いなんてのも殆どない。アメリカとかの多文化多民族国家に比べたらって意味で。アメリカばっかじゃなくてもアフリカ諸国、アラブ諸国でもあるけど。




ちなみに俺の中では「人種差別(者)」と「人種主義(者)」は意味を分けて使ってる。前者は差別なだけ。宗教だったりで「〜人だから」とかいう理由で差別をする事もある。例えばキリスト教徒で白人のアメリカ人はイスラム教のアラブ国家ではきっとあまり受け入れられないでしょ。そして後者はある人種(民族)が他より優っている、劣っているという思想。例えばナチスが掲げていた様なアーリア人至上主義とか「ユダヤ人は劣等な民族」とかいう思想は人種主義的思想。その人種主義的思想の下に行われていたのが人種差別。例えば他には、A国とB国が昔戦争をして、B国の人がA国に昔された事を未だに恨んでいて、その憎しみを理由にA国の人を差別するのは単なる人種差別。そういう民族的な背景とか個人的な経験が必ずしも根拠になくても、ある人種(民族)を他より劣っているとか自分の民族は他より優っていると思うのが人種主義。と、少なくとも俺は区別してる。

2/11/2013

目が不自由な人を街で見かけた時

みんなも目が見えない人(視覚障害者用の杖をついてる人)が駅とかを歩いてるのを見かけたら声を掛けてできたら案内とか手を貸したりした方が良いよ。っていうのは、障害を持った人って必ずしも周りの人を頼りにしてる訳じゃなくて、自分一人で殆ど何でもできる人やりたい人は多いと思うけど、心のどこかでは助けを必要としてるかも知れないし、それに今回一番思ったのがそういう人が自分の目の前で転んだり何かにぶつかったりして怪我したりしたら嫌だなって思ったの。人が怪我とかするのを見るのも嫌ってのはあるけど、当に「助けるべきかなぁ」とか「助けが必要なら手を貸したいな」って思った人が目の前で何かなったら何もしなかった事を後悔するじゃん。目の見えない人は、例えば耳の聞こえない人よりも周りの情報が格段に少なくなるわけじゃん。階段の上り下りとかいくら杖を使ってても危ない。走って上り下りする人もいるしね。だから今回俺は声を掛けたよ。普段は必ずしも「あ、この人は大丈夫そうだな」って俺が勝手に思う人にはあえて進んでは声をかけないけど。その人は乗る時にもドアのないところに立ってたからドアの所まで誘導して、そしたらその人は立ってたんだけど、席はあったけどガラ空きではなかったから座らせるのも少し大変かなと思ってそれは俺はまぁいいやと思ってそのままにしてたんだけど、そしたら今度は他の客が「ここ空いてますよ」と座らせてた。

降りた駅も同じ終点の駅で、どうしようか考えてたんたけど、ちょっと様子見てて階段降りた所で人も多いしやっぱ行ける所まで誘導しようと思って声掛けた。誘導してる途中で「いつも案内とかするんですか?」って聞かれて、「お、これは俺の案内が上手くて慣れてるみたいなのか?( ̄▽ ̄)」と思ったけど普段は基本的に声かけたり誘導なんかしない俺は素直にいいえと言ったよ。途中で「あ、ここ新しくユニクロになったんですね」とか話しかけたけど、目見えない人だったからもし知らなかったら気遣いのない事を言ってしまったと思ったけど、知ってて良かった。笑 最後やっぱありがとうございますと言われたのは嬉しかったね。言われる為にやったわけじゃないけど。「では気を付けてくださいね」といってさよならした。

という事で、俺はこんな事したよって自慢したいわけじゃなくて、みんなも目の不自由な人とかを駅とかで見かける事があると思うし、「声掛けて手助けした方がいいのかなぁ」って考える人もいるでしょう。そういう時は「その人が目の前で転んだりしたら嫌だ。自分が声を掛けてれば防げたのにって後悔する」って思えば声を掛ける"勇気"が少し出るよ。たまにあるじゃん、目の不自由な人が駅のホームから転落して怪我とか電車と接触して怪我とか死亡とか。ああいう事故って周りに人がいたらその人たちは絶対気づいてるはずなんだよね。「そのまま行ったら落ちるよなぁ。でも平気だよな。」とか思ってるはずで、そういうケースの中に運悪く事故につながっちゃうのがたまにあるって事。

自分が声を掛けようと思った人が目の前でそんなんなったら後悔半端ないよね。そうならない為にもこれからは積極的に声を掛けようと今日思った。「感謝されたいな」って気持ちでもいいじゃん!(笑)

2/10/2013

仕事が出来るヤツ、出来ないヤツ


最近つくづく感じる事。仕事が出来る奴、出来ない奴は本当にいる。そして仕事が本当に出来ない奴は本当に出来ない。周りが困る程。それで更に困るのが自分が仕事が出来ない、周りに迷惑が掛かっているという事を当人が分かっていない事がある事。

今俺はアルバイトやってるんだけど(何でインターナショナルのカレッジを卒業してアメリカの学位を取って、21歳にもなってバイトなのかは色々都合があるから今は置いといて)、引っ越しとか配送の手伝いの仕事なのね。したくてしてる仕事じゃないんだけどね。て言うのは、「外国人のお客さんの引っ越しの際の通訳」みたいなのが求人に書いてあったのよ。それで一日7500円は余裕過ぎると。「場合に寄って引っ越しの作業を手伝ってもらう事もあります」とも書いてあった。でも始めてみたら英語を使うシーンなんて全くない(面接の時でさえ俺の"売り"の「英語できます」が忘れられてたからね。w)どころか、外国人の客すらいない。周りのメンバーに聞いてみても日本語が喋れい外国人の現場だった事なんて一度もないと言うのよ。見事な詐称だよね。w だから今は別の仕事探してる。始めてまだ2週間も経ってないけど。

まぁ、でね、基本は重たい荷物だったり大きい荷物だったり、量の多い物を運ぶの。この仕事で一番大事なのはもちろん力がある事と体力がある事なんだけど、そうは言っても頭が悪い奴は使えない。バイトの俺が「使えない」って言うのは立場が違うとは思うし、ベテランの人とか監督者から見れば俺も「こいつ使えねぇ」って思われる部分や行動もあるだろうけど、バイトの俺から見ても「こいつホント使えねぇ」って思う人がいる。しかも30~, 40~, 下手したらもっとのいい歳したおっさんが。俺が前にしてたスーパーのアルバイトでは少なくとも俺の部門では頭を使う事はあんまりなかった。掃除がメインの単調作業。唯一頭を使う事と言ったらその日の忙しさによって変わる掃除の仕方だったり時間配分、掃除しつつ客の入り具合を見て商品の値引きをしたり値引率や値引きの時間を変えたりすること。それはセンスもあるけど、「だいたいこのくらいの時間になったら」って覚えとけば頭を使う程の事でもない。それに基本的には上司から「何時に〜」って指示が出るしね。だからそのスーパーのバイトは要は慣れだった。

それで、今の引っ越しの仕事で仕事が出来る/出来ないの事について感じるのは、寧ろそれが運搬の仕事だからかも知れない。というのは、基本的に毎回現場が違うのよ。俺の勤め先の会社での仕事は、一緒に仕事をするメンバーも毎回違うし、家なり会社なり現場の状況が違う。運ぶ物も違う。だから適応力とか状況に応じて変えなきゃいけない事が多いわけ。それに一人一人にゼロからこうしろああしろって指示される訳じゃないから、必然的に自分で判断しなきゃいけない部分も出てくる。

そんで俺が感じる仕事が出来ない人の行動ね。
・まず状況に応じて自分で判断して行動出来ない。
・指示されるまで待ってる、他の人が動かないと動かない。
・分からない事は分からないと言ったり、何が分からないか、どうすればいいかを聞かない。
・返事をしない、しても小さい声。だから何かを頼んでも伝わったのか分からない時がある。
・コミュニケーションが下手(この仕事だからこその事ではなくて、人としてコミュニケーションに問題を抱えてそうな人もよくいる)。
・行動の効率が悪い。例えばそんなに重たくない物で、持ち方を工夫すれば何個か同時に持てる物でも一個ずつしか持たないとか、一人で頑張って運ぶより他の誰かにも協力してもらったり、リレー形式にして他の人と回してく形をとった方が運びやすいのに、声掛けしたりもせずに一人でやろうとする。物の形が悪くて持ちにくかったり積みにくかったりする物も、工夫さえすれば持てたりスペースに無駄が無く積めたりできるのに機転がきかない。

他にもまだ色々あるけど、こんな感じか。仕事出来る事がその人の人間性や評価の全てではもちろんないし、みんながみんなやってる仕事をやりたくてやってるわけでもやり甲斐を感じてるわけでもないけど、少なくとも仕事をしている上ではその仕事が出来るのは大事。

ていうか思うけど、仕事が出来る奴ってのは大体他の事も上手くこなせる。それこそ文字通り「力仕事」だけをする人に関しては必ずしもそうじゃないけど、引っ越しの仕事にしろスーパーの仕事にしろ新聞配達の仕事にしろ営業にしろ経理にしろ、「出来る奴」ってのはその仕事その仕事のやり方を見つけられてこなせる人なんだと思う。

2/05/2013

再び見えてきた海外留学への道


今頃になって留学出来る可能性が出て来た。昨日、一昨日と親と話してて、実は俺が知らない金があった。留学するのになんとか足りるくらいのお金が。

お金の問題もそうだけど、行ってた短大の卒業が必要な単位を取るのが長引いて、下手したら卒業出来ない感じになってた、というかもはや卒業は諦めてたから親からも呆れられたのもあって親からの援助が親の気持ち的に受けられない状況だったんだけど、卒業はなんとか出来て、それでもたった二年の短大生活の大変さに俺はこのまま大学に進学するのは勉強も嫌いってのもあって厳しいなと思ってた。だから興味がある分野に進むしかないと。でも海外(今の所はカナダ)に留学じゃないにしても行きたい、しばらくそこで暮らしたいという気持ちはまだあったから、ワーキングホリデーで行こうと思ってた。大学に行くという選択肢も俺の中で一応まだゼロじゃないから、というのも学校の忙しくて大変な学生生活から離れてここ何ヶ月間、なんだかんだあの忙しい生活も楽しかったなって思い始めてきてて、だからこの、卒業してからの流れで大学に進学とはいかないかも知れないけど、大学にまた通う事もありかなと、したいかなと思ってる。

それで今は取りあえずはお金を少し貯めるという名目でバイトをしてるんだけど、それは使っちゃったりでそんなに溜まらなそうだとは感じてるし、バイトで貯められるお金にそんなに期待はしていない。ワーホリは30歳までだかっていう期限があって、それまでは最長で一年間ビザ無しでカナダに滞在出来て尚かつ仕事もできると言うオプションだから、それはまだ「最終手段」ということで取っておこうと思う。今やってるバイトは好きでやってる訳でも楽しい訳でもないから長く続けるつもりは無いし、その後留学するかどうかという所が今見えて来た道、決めるべき道。

せっかくのチャンスを無駄にはしたくないし、出来る事ならモノにしたい。自分の将来への第一歩として、また動きだし、挑戦したい。

話が出来る相手、出来ない相手。


やっぱり違う種類の人とは話したりしてると合わない事が多いと思う。違う種類ってのは性格だったり、頭の良さ悪さだったり、大まかに言うとその人のレベルとか。話をしてたりするとそう思う。これを言い換えると「類は友を呼ぶ」ってのはつくづく合ってると思う。良くも悪くも。その人に合った人が周りに集まるんだよ。自分がその人と合ってない場合は近くにいたり話してると疲れるし、自分とその人は合わないモノ同士なんだなって思わされる。まぁ一概には言えないから、例えばそれこそ所謂DQNと呼ばれる人とエリートでも話が合うって事もあるだろう。それは「話が合う」ための要因はいくつもあるから。性格だったりお互いの雰囲気だったりね。趣味が合って話が出来るかも知れないし。

そんで、誰かと話してて「こいつとは話ができない」って思う要因はいくつかあると思う。

まず育った環境(文化だったり)が違う人は話が合わなくなる要因の一つだね。違う国や同じくにでも違う地域出身だったり。もちろん、これは必ずしも大きな要因ではないけど。でも大まかな話をすると国によって民族性や話し方とかも変わってくるし、どこで生まれ育ったかとかは大きいと思う。宗教の違い、影響力の大きさというのも大きい。もちろん一番大きいのはその人個人の性格や思想、考え方だけれど。

次は頭の良さ。これは必ずしも学歴とか教育レベルってわけじゃなくて、簡単に言うと賢さだけど、知識の量とか、話の理解力、想像力、頭の回転の速さや多様な価値観や視点を持ってる事、あとは話の上手さもあるね。聞くのも話すのも。そういったものの度合いで頭が「良い」か「悪い」かって事ね。まぁ教育レベルも関係してくる部分もあるけど。例えば話してる相手が高卒だとして、高卒のみんながみんなバカって訳じゃもちろんないけれど、一般的に言えば「所詮高卒か」って思う人が結局多いと思う。でもその逆もあって「こいつ〜大卒なのにこのレベルかよ...」っていう人もいるし。そういうのは頭の良さ悪さの前に人間性の問題だよね。

頭が良い人は頭が悪い人とは話が合わないし話してると疲れる。で、もちろんその逆も然り。だから頭が足りない者は足りない者同士で話さないと話も合わないし、頭の良い人と話をしてると相手の話す事のレベルや範囲(視点)が広すぎてついて行けない。頭の良い人からすると、頭の悪い人と話していると相手の話や考え方のレベルの低さに呆れる。そういう相手と話しててもつまらないし得るものがないから話す気が起きない。でも中には「これもこういう考えの人がいるという勉強だ」と思って何でも自分の為になるように視点を替えられる人もいる。そんで知識が少ないとか学歴が低いとかで周りから「頭が悪い」とされてる人でも、賢い人は自分より賢い人、頭が良い人と話してたり接してる中でどんどん吸収出来るものは吸収してできるしする気がある。

やっぱり人と話をする上ではいつも同じ意見になるわけじゃないし、意見が食い違う事もあれば時には口論になる時もある。でも人と話す時に大事なのは常に客観的でいる事だよ。自分が信じてた事でもそれが間違っていると解ればそう認める。相手が間違っているならそう指摘する。自分が間違っているなら素直に謝る。そして相手の立場や視点、考えを共感や賛成はできなくても理解をしようという努力を常にし、そういう姿勢でいる事。相手がそういう風でいなくても自分だけはそういられるようにしたい。特に議論をしている時にだけど、人と話をしていて感情的になる事ほど相手が自分の話を聞いてくれなくなる事はないと思う。お互いに反対の意見を持っているなら特に。お互いに同じ事を、例えば同じ趣味について話してて、お互いがその話題に熱くなっちゃう分にはなんら問題ないと思うけど。

変な話、頭が良すぎる人は辛いと思うよ。テレビで「天才小学生」とかやってる事あるけど、普通の小学生が知らない事とか興味すらない事をよく知っていたりするけど、周りの子と話が合わないと思う。で、その子からすれば周りの子は「レベルが低すぎる」と思う。子供じゃなくても普段一般人が理解も出来ない様な科学をやってる人も、同じ様な事をやっている人と位じゃないと話が合わない気がする。ま、科学以外に普通の人とも話が合う様な事に興味がある人はそんな事にはならないと思うけど。

俺個人の話をするなら、俺が頭良いか悪いかは知らないしそこは今は置いておいて、俺はよく色んな事を考えるの。ほんと色んな事。くだらない事から真面目な事まで。で、俺は考える事自体も好きだけど話すのも好きなの。自分で考えて「お、これは誰かに話したい」って思う事があったら話したいでしょ。だから一番身近な人だと親に話すのよ。別に答えを求めてではなくて反応を求めて。一方的に話せればいいの。でも親はあんまり難しい事とか興味も無い事について考える人じゃないから、俺がどんなに考え込んで面白いなって思った事や何かを発見した事でも返答がそっけないなんて事はしょっちゅうなのよ。だからそういう意味では俺は親とは話が合わない。というか周りの人と俺が考える事とか興味がある事について深く話すなんて事は滅多にないから、俺は俺のしたい話ができる相手は周りにはいない。自分自身だけ。笑 だから俺はいつも自分の頭の中でいろんな事、くだらない事から真面目な事まで一人で考えてて頭の中がグルグルだよ。

ここのブログによく長〜い文章、そう、こんな文章を書くのもそう。別に誰も読んでなくてもいいの。誰か読んでるとも思わないし。自分で考えてるだけじゃ本当に自分の中で発生して自分の中で消化してで終わっちゃうから、こうして外に出してるの。捌け口みたいなものよ。出したいの。自己満足みたいなもんだね。で、いつか自分で自分で書いたこういうのを読み返す時があるかな〜なんて思ってて、もしそうなったらそれはそれで面白そうだなって思うし。

じゃ、今日はとりあえずこの辺にしておこうかな。

Kouhei

--- Tue, Feb. 5 11:24pm 2013

2/03/2013

「俳優」と「女優」


男女平等とかいう話を持ってくる訳じゃないんだけど、男性の俳優は一般的に「男優」とは呼ばずに単に「俳優」と呼ぶのに対して、女性の俳優は「女優」って言うじゃん。それってなんか俺は嫌なんだよね。「女優」という言葉は差別だとは思わないけど、不必要な区別だと思うのね。役の性別によって「女優」と分けるのは当たり前だし必要な事だけど、それなら男性俳優も「男優」と呼ぶべきだと思うの。どっちも演技をするのを仕事にしている人たち、つまり性別にに関わらずどちらもプロなんだし、そもそも「俳優」という言葉には特にどっちの性別を表す意味はないでしょう。(「女優」という言葉は女性の俳優を表す言葉(もちろん)として一般的に使われてるけど、「男優」って言葉は一般的には「主演男優賞」とかで「男優」だけではあんまり、対義語の「女優」ほどは使われてないと思う。「AV男優」くらいしか。これは「AV俳優」とも言うのかな。まぁAVに関しては俳優が男性か女性かは大きな違いだしね。)だから俺は個人的には「男性俳優」と「女性俳優」と言いたい。そして世間でもそうなって欲しい。今「女優」と言われその肩書きを自分でもそう名乗ってる人にも、「自分は俳優」だと言うようになって欲しい。

あと面白い事に、英語でも "actor" と "actress" ってなって、男性の俳優か女性の俳優か違うんだよね。日本語でも言ういわゆる「俳優 (男性)」が "actor" で "actress" が「女優」。

「〜する人」って英語では "~er" とかになるじゃん。例えば "player" とか "singer." この言葉には "playess" とかみたく女性形は無いわけよ。英語では他にもいくつか、指すものは同じでも男性形と女性形がある「〜する人」"~o/er" みたいな言葉があるかと思うけど、少なくとも俳優に関しては日本語と共通してて面白いと思う。

英語は様々な言語が元になって出来た言語だから、言葉とか表現の由来になってる言語もそれぞれ様々なのね。だから、少なくとも現代の英語には男性形、女性形は無いけれど、現代の英語でも他の言語或はまだ英語という言語が出来て間もない頃のものが元になったであろう言葉で、指すものは同じものであってもその性別によって使い分けられてる言葉があるのね。例えば "prince (男の王)" と "princess (女の王)"、"hero (男の主人公)" と "heroine (女の主人公)" のように。

ラテン系の言葉、例えばフランス語とかスペイン語では名詞の語尾が、スペイン語を例にすると "~o" だったら男性名詞とか "~a" だったら女性名詞とかあるのね。例えばスペイン語では同じ「子供」って言葉でも男の子なら "niño" で、女の子なら "niña" というように。だから、語源はどの言語であれ英語では「〜する人」という意味になる "~er" や "~or" で終わる名詞は性別によって "or" や "er" の部分が変わるのかなとも思ったんだけど、"actor" 以外で "~or" と終わる名詞を見てみると、例えば「訪問者」という意味の "visitor" はそれが男性であっても女性であっても同じ。"~or" で終わる名詞以外の話をすると、「話者」という意味の "speaker" は男女関係なく一緒、「聞き手」という意味の "listener" も男女関係なく一緒。だから "actor" の "or" が「男性」を表す物ではないんじゃないかなと思ったの。でも "actress" の "ress" は明らかに女性形を表すものだよね。"princess" にもあるように。

My main post is the one in Japanese, not this in English since I was talking about how the term "俳優" is used in Japanese, which is usually used only for male actors. For female actors, a specific term "女優" is used. My argument is that since "俳優" itself does not literally have anything to do with the actors' sex, it's used for mostly only male actors in Japanese. Still though, if you want to specify that the actor's sex is male, you can use "男優," which is literally the opposite term of "女優." So, translation is the below. Keep in mind that I was taking about how "俳優," a Japanese word is used in Japanese, not "actor/actress" in English, although I mentioned "actor" and "actress" and other masculine/feminine nouns as a comparison to the Japanese terms.

I don't mean to bring this topic into such a thing as the equality of men and women, but I personally don't like it that "actor" is used mostly only for men.  That is, the term "actor" itself alone does not necessarily mean it's male, but in practice "actor" is used for pretty much male actors, no? (If that's not true, it's my lack of knowledge in English. You don't have to continue reading from here. lol It's only how I'm passionately talking about how female actors should be called just "actors" the same as male actors.) "Actress" being used for female actors is understandable because it's specifically for female actors just like "heroine" means "female hero," if you get what I'm saying. HOWEVER, what I mean is, I'd like to call male actors "male actors" and female actors "female actors," not "actors (male)" and "actress (female)" respectively by their sexes. All what I am saying is based on my idea that their job - acting as professionals - is a respectable job whether they are male or female. If somebody whose job is acting is female, it's still a professional job (if she's doing it as a professional). I can act, too, but I am not an actor because I am not a professional, after all. As for the roles that actors (male or female) play, it's necessary and reasonable that they separate male actors and female actors from each other by calling specifically female actors "actress" though. But still, unless the term "actor" literally means "female actor" by itself, it doesn't make sense calling actors that play female roles "actress" and calling those who play male actors "actors" because "actors" in English, unlike "男優" in Japanese, does not literally mean specifically "male actors," does it? In my understanding, when comparing Japanese and English, "actor" is like "俳優," which literally does not specify the actor's sex, "男優" specifically means "male actors" and "女優" specifically means "female actors."



The rest of what I wrote in Japanese, it feels too troublesome and complicated to write in English since I wrote what I was talking about in Japanese comparing English terms and other Latin origin languages. Don't comment on that part assuming what I wrote unless you understand what I wrote in Japanese well enough.

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アイコンタクト


ヨーロッパ諸国にも一般的に言えるかは俺は分からないけど、俺が聞いた所では少なくともアメリカでは人と向かい合って話している時は相手の目を見て話すのが普通な事(マナーとか礼儀なのかは置いておいて)なんだって。と言うのは、相手の目を見て話さないって言うのは自分に自信が無かったり、本当の事を言っていないとか、その話している相手に興味が無いというふうに取られるらしい。

日本(或は日本人)では相手の目を見て話さない人が少なくないと思う。現代では多少こういった意味合いは薄れて来てると思うけど、伝統的な習慣としては相手の目を直視して話さないのが礼儀みたいにされてるのもあると思うんだけど、俺はアメリカ人でもなけりゃアメリカで育ったわけでもないけど、相手に自分の目を見ないで話されるとなんか気持ち悪い。その話してる相手の事が気持ち悪いって意味じゃなくて、相手が自分の目を見て話してないというのはどうもしっくり来ない、気持ちが良くないという事。「この人俺に対して喋ってるんだよな?」とか「真面目に話してる?」とか「何かをちゃんと俺に伝えたいという気があって話してるのか?」と思う。上司-部下だったり、先輩-後輩だったりそういう上下関係無しにしても、誰が相手でもそう感じる。そうは言いつつも、やっぱり上司だったり先生だったり自分に指示を出したり何かを教えたりする人がそれじゃあ不安になる。「もっと自信もって言ってくれ」って思う。そして自分が何かを指示したり教えたりする人がそうでも「こいつちゃんと俺が言った事分かったのかな」と思う。

まぁビジネスの場面だったり、それ以外の普段のコミュニケーションでも相手の目を見て話す事はマナーでもあり当たり前の事とされてる面ももちろんあるけどね、少なくとも現代は。それこそ武士とか大名とかそういう社会的に絶対的な「階級」とかがあった時代ではそういう格上の人と話す時は相手の目を直視して話すのは敵対心とかを表すとされてた時代もあっただろうし、正に御門の前には簾みたいなのがあって、家来達はそれを通して御門と話してたって言うしね。それは御門の顔を直接見るのは大変失礼であるとされたからと聞いたけど、少なくとも日本では「見る」という行為には色々な意味が持たれてるよね。

まぁ俺としても大まかに言っても相手を見る事、そして相手の目を見る事というような、相手に視線を送る事はその相手への何らかの意識があるを示しているわけで、聞いた話ではそれこそニホンザルは目を見ると自分への威嚇、攻撃の意志の現れと捉えられて攻撃してくると聞いた。猫も目を直視するのは何かの意味と捉えられるって聞いたし。だから視線が表すものっていうのは人間にとっても何かしらあるものだよね。

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